メモ

●論文(中村享一)

・「地方の時代」の建築を問う

第1章 序



第2章 「地方」とは

第3章 「ポスト地方」と「世界」

第4章 手法について

鹿児島竜ヶ水大水害

第一章 序

私は、福岡を拠点地とし、九州・山口で建築活動を行っています。生まれは長崎で1951年〜1974年までは長崎で生活をし、1974年〜1979年の間は東京で建築の仕事に従事していました。その後は福岡で建築活動を行っていますが、「地方」で活動を行っているという実感があまりありません。というのも中央(東京)から見る「地方」とはあたかも実体があるかのごとく語られ区別されていますが、せいぜいその「地方」の「ふるさと感」程度のものでしかないことの方が多いように思えます。中央(東京)から区別されているのは、九州地方・四国地方・中国地方といったように大都市圏で区切られた、又は、地続きになっていない海峡で分けられた地域をひとまとめにとらえている程度のもののように思えます。「地方」又は地域間の差異が感じられる様々な情報は不充分に感じます。それに比べて中央の情報は「地方」にいてもよくわかります。

今年(1993年)あまり規模の大きくない台風が東京に上陸をしました。それによって都市機能が大変なダメージを受けました。その前後のニュースや報道はものすごい量で「地方」にも流れました。天気予報一つとっても、何回も何回も繰り返しいろんなチャンネルで放送されていました。九州ではあれくらいの規模の台風は毎年何回か上陸するが近くに来るまで、又、具体的な人身被害が出るまで天気予報以外の電波に乗ることはほとんどありません。

1993年8月6日、私は出張で鹿児島に出かけました。出かける時から少し気になる出張ではありましたが・・・。というのも鹿児島は今年大雨続きで土砂崩れが頻繁におきていましたし、当日も天気予報は雨だったのです。その日は役所の工事完了時の検査で出張を延期することもできずに出かけました。鹿児島空港までは小雨程度で良かったのですが高速バスで鹿児島市内の現場につくころには雨も強くなり高速道路も直後に閉鎖されました。ともあれ仕事を終らせ帰路についたのですが飛行機は飛んでいないだろうとJR鹿児島駅まで行きましたが、すでに止まっていました。飛行機はまだ飛んでいるという情報に急いで高速バスターミナルへ行きました。持っていた帰りの飛行機チケットの時間までは3時間あったので高速バスに飛び乗りました。高速バスは大雨の中をゆっくり走り始めましたがバスの運転手が「空港までは一般道を走りますし大雨で混雑しているので3時間位はかかると思います」とのアナウンスでした。成り行きにまかせバスからの景色を見続けていました。とはいっても大雨でした、今にも氾濫しそうな川・真っ黒な雲、のんびりしていた気分ではありませんでした。

発車から2時間後にバスは突然止まりました。バスの前には4・5台程度の車が止まっていてパーキングランプがついていました、大雨で先が良く見えなかったのですがバスの運転手が降りて前を見に行ったあと「前の道路が土砂でふさがれています。これより先にはいけません、本社と無線で連絡をとり反対方向のバスに乗り換えてもらえる様連絡してみますから」ということでした。 私達の乗ったバスは最も被害の大きかった竜ヶ水で止まったのでした。

その状況は私には良く理解できました。私は九州の大きな災害の現場をよく見て廻っていました。長崎の大水害・台風19号・島原の火災流の現場などそれらは私達のような仕事と関わっている者達には学校の教育以上に多くのことを教えてくれるからです。思ったとおり鹿児島市全体がパニック状態になってきました。ラジオでは市民に車で移動しない様連呼するばかりでした。警察が水に浸かって無線が使えないとか、パトカーが出動できないとか。バスの中のテレビは丁度その時、細川内閣(国会)の首班指名の特別番組が放送されていました。テレビでは大雨災害の様子などほとんど流れてきません。流れてくるのは通常に放送されている天気予報のみでした。また引き続き、時間100mmを超える雨が降るかもしれないという情報程度でした。我々は恐怖心がつのるばかりでした。バスの運転手は「このままでは危険だからバスから降りて避難してくれ」と言いました。「災害地を見てきた経験から今避難するのは市内まで戻る間に鉄砲水で流される可能性が多いので危険だ、海からの救助を求めた方が良い」と私は発言しました。バスの他の乗客も私と運転手のやり取りを真剣に聞いていました。その直後にバスの後方部に鉄砲水が出て孤立状態になりました。運転手も理解をし海への避難通路を確保するのに奔走したりバス本社を通じて災害本部等に連絡をとるなどして我々は6時間後、無事バスの乗客及び周辺の乗用車等で同じ地区に閉じ込められていた人々と共に船で脱出することができました。

もう一つ我々がスムーズに避難できたのは理由があります。我々が閉じ込められていた区域の少し市内よりの所に鹿児島県知事も土石流に道をふさがれ閉じ込められていました。知事の公用車の無線電話でことの状況が連絡されていて海上保安庁が避難活動を指揮していたことです。と もあれ無事上陸し命びろいをしました。

私は「地方」にいてあまり「地方」を感じたことはないのですが、その災害の時は、情報の「地方=過疎地」にいるのだなとつくづく感じました。必要な時に大切な情報が伝わってきませんでした。私はその時、長崎の大水害の時に大きな被害をだした網場:矢上地区のことを思い出していました。電話線が不通の為に状況判断が遅れて救助が後手に廻った時のことを思い出していました。しかし、わずか10年たらずですが状況は変わっていました。高速バスに取り付けられている公衆電話・パーソナルの無線電話等は、有線の一般回線よりもスムーズに連絡がとれていました。 災害現場に閉じ込められている人々の中でかなりの人がそれを所有していました。

いつも大量に送り出されてくる一方通行のテレビジョン・ラジオ等のマスメディアの情報、又、広域にではあるが通信ラインをある程度限定されている有線電話回線ではなく、全国ネットワークでアクセスできる新しい情報機械、今回はまさに『海』と『最新情報機械』 に助けられた様な気がしました。

一宇一級建築士事務所
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